江古田生活も残り4分の3になってしまったけど、今年はどんな夏になるのかな?

僕は所沢と江古田にあるしがない大学に通っている。

1、2年は所沢、3、4年は江古田に通うことになっていて、あれよあれよという内に江古田に校舎が移り、もう夏休みを迎えてしまった。

大学生活3回目の夏休み。言い方を変えれば最後から2番目の夏休み。

最近人生が加速したりと、生活にとても速さを感じる。

今年は同期も「ターリー屋でインターンする」とかギャグでいい出したりして、少しだけ大学生活も折り返しを迎えて、どんどん卒業というものに近づいているんだなということを感じざるを得ない。

僕はといえば、今年の夏も香港に行くとかポートランドに行くとか色々アイデアはあるけど、なんだか一人で夏を越すというよりかは、誰かと一緒に同じものを共有していきたいという思いの方が強いような気がしている。こういうことを書くと一瞬すごい儚さを感じるけど、人生は加速していく一方なので、儚いなんて思っている暇があれば、どんどん色々なものを経験して吸収して何かに生かしていきたい。

今年の夏はモノも作りたい。

以前作っていたEffortlessという”自己満旅行記”はいろんな場所で取材したものの、形にできていないし、今年の夏も色々な場所に行くことになりそうなので、そこも取材して、一気に編集して完成させていこうかとも考えている。

http://shunuchiya411.tumblr.com/post/155418635026/effortless-domestic-001-hakodatehokkaido

shunuchiya411.tumblr.com

 動画も一本だがアイデアがあるので、それも作れたら良いな。

なんだかんだでやっぱり時間がない。たぶん自分の好きなように何かを作るっていうことはこれが一個の区切りになるんじゃないかなとも思っていたりもするので、いつもだけど、今回も最後の気持ちで製作したい。

あ、これは少し宣伝でもあるのだけれど、僕の大学の芸祭では学内で流すテレビがあるのだけれど、そのテレビで趣味全開の企画が放送されるっぽい(と言っても何もまだ作っていない)ので、それもまた近くなったら告知なり何なりしていこうかな。

そんなこんなで今年の夏も充実した夏にしたい!

みんな、一緒にご飯でも食べて、くだらない話をしようよ。

 

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人生が加速している話。

人生が加速している。

 

大学生活も残り2年を切って、2017年はもう下半期に突入した。

2年前自分が思い描いていた大学3年の生活を送れているのかは、正直わからないけれど、そのわからなさを楽しめるくらいには今の自分に余裕がある。そして同じくらいに焦燥感もある。だって学生が終わってしまう。アメリカに行きたくても、すぐは行けないだろうし、映画だって1800円になる。未来に一抹の不安を抱えている。

最近なんだか夢の話をする友達が増えた。それだけみんな”今”に満足しているようで不満を抱えていて、未来をより良くしたいと考えているのかもしれない。周りの環境が時間を加速させてる。そう思った。

そんなことを考えていたら、このブログを思い出して、あぁマジで加速してるって気持ちになってしまった。モノには限りがあるし、終わらないことなんてどこにもないけれど、刻一刻と僕の時間は加速している。大学生活がカウントダウンを始めている。そんな気持ちになる。

この前、数えるほどしか行ったことがないナイトクラブにいった。オールすると翌日がつぶれるから嫌だったのだけれど、翌日なんの予定もない自分にクラブをパスするという選択肢はなかった。大きな音と強いお酒。そして昔のDJ時代にお世話になった先輩達。

そのすべての環境が、僕の夜を作って、僕を加速させていく。

酒を浴びるという表現がピッタリなほどに酒をあおって、Visionの滑りやすい階段を見事に転げ落ち、未だにお尻が痛いけど、なんだかその痛みも良いと思える、そんな夜だった。次の朝、スマホを開くと、一つの曲がシャザムされていた。

あの夜の思い出をすべて吐き出すことは出来ないけど、思い出は確かに曲に詰まっていた。そんなことを思える良い曲が僕のスマホにはしっかり収められていた。

明日、一週間後、半年後、一年後。

そのとき僕がどうなっているかなんて僕にもわからない。もしかしたら億万長者になっているかもしれない。億万長者になれたらいいな、くらいのユルさで日々を過ごそうか。そんなユルさをしっかり噛み締めて毎日を過ごしたい。1年後の今、後悔なんて絶対したくないし、言いたくもない。そのために今の自分に言い聞かせよう。

カレーライスの話

今日はどこに行こうか?いくつかの街が思い浮かぶ。

たまには美味しいカレーでも食べに出かけよう。そう決めると、夏バテで重くなっていた腰も軽くなった。

財布とタバコ、読みかけの本をポケットに突っ込み、神保町に向かう。本をペラペラとめくると、お腹がぐうぐうと鳴る。神保町ならキッチン南海だろう。気持ちが高鳴る。

店は今日も人が並んでいた。一番後ろに付き、本を開く。店内に入り、「カレー」と言うと、おばちゃんが軽い相槌を打ち、奥へと消えた。

水と同時にカレーが机に置かれる。スプーンを手に取り、大きい一口を頬張る。うまい。

スプーン一つとルーとライス。究極にシンプルな食べ物だ。カレーは気軽に腹いっぱいになるのも、おいしい。

スプーンを口に運べば運ぶほど額から汗が吹き出る。夏だからじゃない。汗が美味しさのバロメーターになっているんだ。そんなことを考えながら、汗を垂らしながらカレーを夢中で頬張る自分が少し笑えた。

僕のファンタジークラブ 後編

前編はこちら

僕のファンタジークラブ 前編 - それなら最後に踊ろうよ

 

5/24にリリースされた「FANTASY CLUB」

このアルバムを聞いて自分の問題意識と重なる部分もあってか、衝撃を受けた。ひしひしと感じるtofubeats氏の苦悩。それはストーリーとなってアルバムに載っていたように思える。

 

僕なりにこの「FANTASY CLUB」がどんなストーリーだったのかを、まとめてみよう。

 

M1のCHANT #1ではある種、今回のアルバムの結論を言っているようなイントロで始まる。知るということの恐怖。

移り変わる世の中はストーリー 

いつの間にか思ってない方に ああ

恐ろしいもの 触れてしまう時

これ以上もう気づかないで

CHANT #1 / tofubeats

CHANT #1

CHANT #1

「知って良いことなんて、もしかしたらないのかも。なら知る必要なんてない、気づく必要なんてない。」僕は歌詞を見て、実際に音楽を聴いて、視聴者に対して注意書きならぬ注意聞きをさせているなと感じた。「それでも聞くの?それってもしかしたら知る必要のないことかも。それでも聞きたいなら聞いてね。」と覚悟を迫られる気分にさえなるのだ。

そんな覚悟を問うたのちに流れ込んでくる楽曲が、前述した「SHOPPINGMALL」だ。

SHOPPINGMALL (FOR FANTASY CLUB)

SHOPPINGMALL (FOR FANTASY CLUB)

 「今の社会って僕はこう思うんです。でもそれって良いことには思えないんです。何を信じて生きていけばいいの?」という思いが素直に表現されている。

そんな暗中模索の中、「同じような思いを持っている人って、たぶんどこかにいる。どこかはわからないけど、大声で叫べば、もしかしたら声は届くかも。踊り続ければ、もしかしたら探し出せるかも。」と歌うのがM3「LONELY NIGHTS」

LONELY NIGHTS

LONELY NIGHTS

「もしかしたらこの人?でも違うかも?やっぱり本当のことなんてわからない。とりあえずは一緒に踊ったけど、よくわからない。結局孤独じゃん。」と一瞬見えた光明も、幻のような存在に感じて、一瞬は消えた孤独も、また見え隠れし始めてくる。他人と触れ合うことで解決しようとする、そんな自分以外の誰かを表現するためにも、YOUNG JUJUの存在は大きいだろう。そして、その後「答えはどこ?どうすればいいの?」となるのがM4「CALLIN」

真夜中のphonecall

見えない所からまなざしを

真夜中のphonecall

知りたくないこと 知りたいことがある

CALLIN / tofubeats

CALLIN

CALLIN

  知りたいことを知ろうとすればするほど、知りたくないことも耳に入る。確かにそれは辛いことだが、そういった過程を経て、M5の「OPEN YOUR HEART」が来る。

正解や正しさはたぶん自分のやりたいことをやれば見えてくるんじゃないか?自分のしたいことに素直になろう。やりたいことをやってみよう。という中でM6「FANTASY CLUB」M7「STOP」というインストの2曲が入る。

そうした自分と向き合った後に人と関わりあうと、不思議と世界の見え方が変わっていた。またそうしたマインドで向き合った人は、自分の持っていないものを持っていて、それはもしかしたら自分の求めているものかもしれない。知らないことを知ること、それが、自分を作り、ひいては求めているものに辿り着けるのかもしれない。そんなマインドを歌っているのがM8「WHAT YOU GOT」

夜から朝までparty

窓開けたらめちゃsunny

何を得たのかわからない

取り出して並べてみたい

新しい音たくさん浴びたいまだまだ 不完全

君と踊りたいしうまくいきたい

他のこととか別にいいよ

WHAT YOU GOT / tofubeats

WHAT YOU GOT

WHAT YOU GOT

 自分を知るという一つのプロセスを経た後の、人との出会いは確実に希望であり、そこに何かしらのモノやヒントを求めていた。そしてその出会いは、今までの自分には全くなかった穏やかな気持ちを授けてくれる出会いであった。その穏やかな時間から「答えなんてない。答えを出して何になる?それって愛の形に正解を求めるようなものだ」という気持ちをメロウに表現するのがM11「YUUKI」

踏み込んだ道の途中

きっと何かの感情

歩き出すその勇気

持っているだけできっと

大丈夫

愛しあう

It's Sunny Sunny Sunday

晴れた日には街に出かけよう

いつかは噛み合って

どんな時も君に

会いたいな

YUUKI / tofubeats

YUUKI

YUUKI

 この経験から得たものは大きく、そして意外なものであった。自分が忘れていたような感情、それは晴れた日曜日は外に出かけてみるとか、気づけば笑っちゃうようなことだったけれど、忘れていた感情を思い出すと、今自分が抱えている答えなき問題の捉え方も変わってくる。そんな自分にいろんな感情を思いださせてくれる、そんな存在に導かれている自分を歌うM12「BABY」

BABY 君だけを見て 君だけを見て

導かれる 導かれる ナナナナ

BABY / tofubeats 

BABY

BABY

 そして自分の求めている真実や答えがあると思ってきた、桃源郷のような存在の「FANTASY CLUB」はリアリティにかける存在ということをわかりつつも、どこかで出会えれば良いな、という希望を抱く存在として彼の中に居続ける。

FANTASY CLUB

入れたらいいな

信じたいことを

信じたらいいじゃん

でも簡単には

いかないしなって

音鳴らしたりした

FANTASY CLUB

CHANT #2 / tofubeats 

CHANT #2 (FOR FANTASY CLUB)

CHANT #2 (FOR FANTASY CLUB)

 ここまでのプロセスで、答えという一様なものを求めすぎていた自分に気づく。そしてそれは間違っているわけではないけど、たぶん答えなんて死ぬまでわからないかもしれない。もしかしたら死んでもわからないかもしれない。そんな永遠とも言える問いに対して、思いつめて考える必要なんてないのかもしれない。だったら自分にできること、それをやり続けていくことが、何よりも真実に近づける一つの答えだったのではないだろうか。

そしてその答えにたどり着いた氏自身の成長、そして気持ちがイントロ曲とアウトロ曲のCHANTにとてもよく表れている。自分の抱える問題を一つ乗り越えた感じがするのだ。

tofubeats氏のメジャーデビューしてからの音楽性は良し悪しではなく、かなりポップなものになった。First Albumしかり、POSITIVEしかり。音楽性を見失ったという印象ではなかったが、メジャーという世界で模索している姿を曲から感じた。

だが彼自身の一番の躍進となったきっかけの曲「水星」はポップさの中にどこか暗さがあるといったそんな曲だったように感じる。そして何より、人となりが表れていた曲だと思っている。それは今までただ逃げのように「エモい」と表現していたが、そのエモさこそ、tofubeats自身の人となりなのではないか。と「FANTASY CLUB」を聞いて確信した。

今回のアルバム、一番最後にやった作業がCHANT #2のアウトロを作ることだった。ピッチが下がっていってそのまま終わるのも悪くはないが、どうもアルバム全体が締まらないような気がして何日も頭を悩ませていた。

(中略)

いろいろ思慮を巡らせつつ、今回はフィールドレコーディングにしてみたらどうか、と思い、とりあえずレコーダーを持って、いろんな場所に向かってみて、音を録ってみることにした。普段外では音楽を聞きながら歩いているので、そこでどんな音が流れているのか、改めて見つめ直すことはとても新鮮で意味のあることだった。

例えば最後に聞こえる汽笛の音がそうだ。神戸にいれば実は結構な山側にいても汽笛の音が聞こえることはよくある。海に出るまで20分〜30分以上かかるであろう場所でも、山地を背にした神戸でそれが聞こえることはおかしいことではない。ただ、こうして録音してみないと汽笛が普段聞こえていることなんてすっかり当たり前になってしまい、忘れてしまっているのだ。教会の鐘の音もそうである。人間の耳というのは都合よくできていて、知らず知らずのうちに驚きのないものは奥の方に仕舞い込んでしまう。レコーダーで録音することによってそんな音の数々を洗い出していった。そうして自分が好きで何度も向かっている場所からいくつかの音を集めて、それらの音が重なって再生してアルバムは終了する。大体は自分が一人で気分転換に向かう場所の音だ。今回は晴れの日を待つ余裕もあったのもラッキーだった。

「FANTASY CLUB」初回限定ライナーノーツより tofubeats

自分を育ててくれた場所が荒廃し始めている悲しさ、そのことから感じる孤独。荒廃に対する少しの怒り。そんな一気にはとても消化できないであろう息苦しさ。それを解消してくれるのは、他人でも、環境でもなく、自分自身の行動や気持ちの持ちようでしかなかった。答えはいつも自分の中にある(のかも)、というような答えとも言えない、付け焼き刃のような答えでも、氏にとっては少しだけ胸を撫で下ろせるような、そんな答えであったに違いない。そんな一種の答えまでに辿り着くまでのプロセスをストーリー化したものが、「FANTASY CLUB」なのだろう。

 こうしてファンタジークラブは終わる。

僕のファンタジークラブはどこにあるんだろう。

そんな事を考えながら、無機質にイヤフォンから流れる神戸の汽笛を聞いていた。

 

 

前編はこちらから。

僕のファンタジークラブ 前編

後編はこちら

僕のファンタジークラブ 後編 - それなら最後に踊ろうよ

 

何から書けばいいだろう。

突き動かされるようにして、ブログを開いた。

いろんな物事が折り重なって、僕はアイスコーヒー片手にこの文章を書いている。

とにかく書いていこう。

5/24「FANTASY CLUB / tofubeats」が発売された。

 

2ヶ月前に「BABY」という曲のPVと共にアルバムの情報がリリースされ、この日を一ファンとして待ち望んでいた。

実際に聞いてみると、アルバムは想像以上の出来だった。前作のPOSITIVEやFirst Albumと比べると、そこには確実にtofubeats氏の人となりがとても現れているように感じたのだ。

アルバム全体としての完成度が高いと言ったが、一曲一曲を個別で聞くのではなく、アルバムを通しで聴いてこそ、このアルバムの真価は発揮される。今回のアルバムは、通しで聞かせることに意味を持たせた、今の音楽界では一風変わった切り口で展開されているアルバムだろう。

確かに今までつながりのあるアルバムがなかったかと言われれば、それはそうではない。僕をクラブミュージックの虜にしたキッカケのアーティストであるm-floは2001年にリリースした「EXPO EXPO」というアルバムで仮想の万博をイメージしたストーリー設定でアルバムが進んでいく。特にM1からM2の流れは当時の音楽界にとっては衝撃的な感覚だったと思う。僕自身も、あの当時にしてみれば面白い作品だったなと16年前を思い返して、今思う。

 

音楽は今激動の時代を乗り越えようとしている。レコード、カセット、CD、MD、ときて今ではmp3の時代。そして誰もが音楽というものに対して、お金を払うことを忘れた。とにかく音楽にとって今は、何が正しく、何が売れるものなのか。それが毎日常に変化しているような時代なのだ。その時代にポツンと、このFANTASY CLUBというアルバムは現れた。

tofubeats氏自身は前作POSITIVEをリリースするプロセスで「ニーズ」というものがわからなかくなったそうだ。

聴き手の好きなものなんてわかんないのに、「こんなん好きでしょ?」と出すのをいまやるのは失礼かなと。そんな風にやるのはやっぱり無理、というか……、あのときは「ポジティヴ」という言葉があったからなんとか明るい方向でまとまったんですけど、「みんなの総意」みたいな部分でいうと、もうそんなものはなかったと。

『POSITIVE』を作って、やっぱりそんなものはわかんないとあらためて思ったんです。みんながなにを好きなのかなんてわからないと、だったら、その「わからない」と真剣に向き合ってみようと。ノリや理屈で突破するっていうんじゃなくて、とにかく「わからない」と向き合ってみようと。

言ってしまえば当たり前の話でもあるのだが、音楽というものにそもそも一様なニーズがあることの方が特殊なはず。ここで確実に言えることは、今はアーティストがアーティストであり続けることの難しさ、であろう。

昔のアーティスト、特に僕のイメージで言えば、アーティストは

受け手からすれば神のような存在で、俺が好きなものを見てくれよ。俺が好きならお前らも好きだろ?という少しジャイアン的なものというか、押し付けなイメージが強い。「心酔」という免罪符を手に入れたアーティストが多かったのも事実だし、心酔を勝ち取れるキャラの強いアーティストがいたことも事実だろう。

氏の話に戻れば、音楽の一様なニーズがない中で、メジャーとして曲を売らなければいけないということ。そして自分のあり方というもの。そういったものをどういった形で社会に対して打ち返していくか。そういった問題意識があるように思えた。そしてアーティストである以前にクリエイターでもあるtofubeats氏らしい問題意識でもあるように思えた。

そして、そんな問題意識の裏には、氏の名前を世界中に知らしめるために必要不可欠だったインターネットが抱える問題も大きい。

インターネットで起こった事件といって必ず挙がるものの一つとして、welqの不祥事があるだろう。welqの不祥事は、インターネットという存在意義を改めて考えさせられる問題であったのと同時に、現在進行で社会に横たわる問題を表出させるキッカケにもなった。

その問題とはニーズという「数字の生む勘違い」である。

簡単にいえば、テクノロジーの進化によって様々なものが数値化できる社会になった今、

数字が良いこと=善いこと

と捉えがちになっている社会があること。そしてその結果、数字をただ追い求めたインターネットメディアが分かりやすく問題として社会に表出した。そして何よりも問題なのは

「数字が良いこと=善いこと」と「数字が良いこと≠善いこと」の

乖離が進んでいること。また後者の意見を支持する人が減少しているということ。それはつまり、測定できない価値は無価値と捉えられがちな社会になりつつあるということだ。

僕自身、この問題を「勘違い」と捉えているので数字至上主義になりつつある社会に疑問符を持っている。そして数字至上主義となった社会における、インターネットの世界はパソコンでインターネットを見るのが当たり前な世代からすると、前に比べて低俗なものになっている気がしてならないのだ。FANTASY CLUBのライナーノーツでtofubeats氏はこう述べている。

インターネットを始めたころは面白いものが昔よりもっと評価されやすくなる未来がくるぞ!と信じていたが、今となっては全く逆で、全てがバズみたいなものと結びつけられていけば、物事はきっとさらに低い所に流れていくだろうと思う。倫理みたいなものもどんどん無くなっていくのだろうか、そんな時に自分の聞きたいような音楽を作ってくれる人は出てくるのだろうか…と考えるとあんまり明るい気持ちになりにくい。本当に人間が求めているものは下世話な話題だけだったりするのかもしれない。

かつて氏自身を知るきっかけ、知られるきっかけであったインターネットの世界は文化的なものを次第に蔑ろにし、荒野のようなものになっているのかもしれない。 そんな考えが氏自身の孤独や、FANTASY CLUBの2曲目にある「SHOPPINGMALL」というものを生み出したと考えられないだろうか。

何がリアル 何がリアルじゃないか

そんなことだけでおもしろいか

何がいらなくて 何がほしいか

自分でも把握できてないな

(中略)

最近好きなアルバムを聞いた 特に話す相手はいない

SHOPPINGMALL / tofubeats

 またele-kingでのインタビューでは、

ポスト・トゥルース”が物語るのは、それがもはや「ぼくたちのインターネット」ではないということだと思う。もうそれは「インターネットの次の時代」の話というか、ぼくたちみたいに比較的最初のほうにパソコンでインターネットに触れていた人たちが陥っている状況というよりも、あとからスマートフォンで入って来た受ける側にしかいない人たちの話ですよね。

 というように、かつて自分が育ったインターネットという土壌の変化や、その変化から感じる孤独というものが手に取るようにわかる。そして今作FANTASY CLUBは、そういった社会に対する問題意識に対して、一種の答えを提示するとともに、氏自身の答えまでを得るプロセスが描写されているように思える。それがひとつのストーリーとなって僕たち視聴者に届いている。そのストーリーを僕は完全に感じてしまった。氏は自分の思いを曲に載せ、アルバムという曲順が重要になってくる作品で、ストーリーを持たせた。そしてどんなストーリーとして映ったか。そこにどんなストーリーがあったのか。それを模索していきたい。

 

後編はこちら。

孤独と思い出について。

 

インターネット的 (PHP文庫)

インターネット的 (PHP文庫)

 

 最近、こんな本を読んだ。

糸井重里さんの有名な言葉に

「Only is not Lonely」という言葉がありますが、その言葉が生まれた経緯などが冒頭に書いてあって面白い。インターネットって確かに個性を個性のままにしないというか、自分だけじゃないんだって気持ちにさせてくれる強さがある気がしてる。

 

さてそんな今回は、「孤独」について。

最近すごく孤独という言葉を耳にするようになった。たぶん新学期が始まって、色んな人と出会って、人の色んな部分に触れたりして、ちょうど今、人疲れをするような時期なんじゃないかなって個人的には思ってる。色んな人に囲まれると孤独って際立つしね。

でも色んなタイミングで孤独は生まれる。

別にそこに人がいようがいまいが、孤独の登場に人の有無は関係ないのが実情。話のリズムとか内容とかが、ことごとく合わない環境に身を置いたりすると、

「信じられん」

みたいなマインドになったりする。でもそれって不満をまとった孤独みたいなもの。

クリスマスになるとツイッターでは「リア充死ね」とか「クリスマスなんていらない」とかよくそういうツイートを見るけど、あれも孤独の産物だと思っている。

たくさん周りに人はいる(しかも超幸せそう)けど、どこか疎外感を感じる。というか感じにいってる。クリスマスとか他人が楽しそうにしてるものに対して疎外感を感じるのって意外と簡単なんだ。

「ふん、こんなもの。子供じみてる」

この一言とイヤフォンの音量+ボタンを押せば、はい出来上がり。君は孤独だ。特にクリスマスっていうのはクリスマスツリーとか、色々象徴的なものが多すぎて、恨みの的になりがちって話もあるけど、まぁその話は関係ないっちゃないか。

 

いろんな孤独が自分を大人にしてくれたような気がしているけど、その反面、その場を楽しめていな自分は、一生その場に取り残されているような気もして。でもそんな自分を振り返って見返したりはしないわけだけど。そんな中で大人になればなるほど、慢性的な孤独って増えてきてて。

「あぁこれが大人なら、大人になるってなんてつまらない事なんだろう」

とか思ったりもするけど、時間は誰にも止められない。秒針が動くたびに、確実に寿命は縮まってる。僕も。目の前のおばさんも。ギャーギャー騒いでるそこの子供も。この増え続ける孤独に誰も抗えない。ただただその孤独を黙って通り過ぎるのを待つんだ。

 

ある日、かかっていたラジオからBlue MagicのSideshowが流れて、母が反応した。


Blue Magic - Sideshow

「うわーこれ私、クリスマスのマンハッタンで乗った友達の車で流れてたわ。センス良かったんだなぁ。まぁ編集者だったしなぁ。」

バブルを生きた人たちは、孤独な思い出と無縁そうで、なんか楽しそうだ。というか本当、今って人と共有できる思い出を中々作れない時代になった。

だって僕にはマンハッタンで一人フランクシナトラを聞いた、みたいな思い出しかなくて、当然誰かと行ったみたいな思い出もない。ニューヨークに行くときは、なぜかいつも一人。

だから同じ空間で、同じタイミングで、同じ曲を聞いた人がいるって今の時代とっても貴重な思い出だし、体験だと思うんだ。

そんな思い出を作れるの、大学生までなんだろうな、と思ったら突然焦りが生まれた。

誰かと旅行に行きたい、誰かとフェスに行きたい、誰かと映画を見に行きたい!

今この時間って今しかない。孤独だと思ったら手当たり次第に連絡をして少しでも同じ体験を共有しよう、そう思った。別にそれって恥ずかしい事じゃないはず。

そんな体験や思い出、僕にはまだまだ少ない気がするから、これからもっともっと作っていきたい。そして俺も30年後に言うんだ。

「あ!これ!大学3年の時に当時の彼女と一緒に聞いた曲!」

って。

 

 

強い言葉とは。

 

もうここ2年くらい気にしているトピックが”言葉”。

言葉って本当に面白くて、言い方によって相手に伝わる印象が本当に変わる。

「君が好きだ」って言葉はストレートで、気持ちの真っ直ぐさが伝わる。

「君の瞳に恋してる」なら、その部分に特別感情を抱いている気持ちが見て取れる。

というように一つの感情を伝えるのに様々な通り道が存在しているのが言葉で、そんな言葉の多様性に、常日頃僕は魅せられているわけです。

 

そんなある日、というか4月に入って言葉について気がついたことがあって、それが今回のエントリーのテーマ。

それは「言葉の強さ」

言葉に強いも弱いもある?って思うけど、刺さる言葉とか忘れられない言葉って誰しもあると思う。

僕なら映画監督のマーティンスコセッシが2014年のニューヨーク大学卒業スピーチで言った

「Everyday is a Rededication (毎日が創造活動のチャンスだ)」

という言葉。

 

Martin Scorsese - Honored Speaker at Tisch Salute 2014 from Tisch School of the Arts on Vimeo.

これは本に文字起こしされるくらい有名なスピーチなので、一度英語の勉強がてら見てみるといいかもしれない。ぶっ飛ぶ。

そういうように、言葉のツヤとか、目立ち具合ってやっぱり多少あって、一言でポーンって放った言葉が人の心に深く突き刺さることってある。

そんな中で僕自身が感じていたことは

「強い言葉はネガティブな感情から生まれるのではないか?」

ということ。

確かにマーティンスコセッシは順風満帆な映画監督人生ではない。このスピーチでもスポンサーが取れなくて苦しんだ話をしていたから、やっぱり映画を楽しんで撮っているだけではないんんだろうということは想像がつく。

ネガティブな感情っていうのは基本的にコンプレックスや嫌な思い出とかからくるもので、案外そういうのって好転しないもの。だからこそ、ネガティブのパワーっていうのは中々落ちていかないんだろう。それがゆえに、ポジティブな感情と比べた時に、ネガティブな感情っていうのは パワーの面で勝っていくし、結論感情の表現として長けている言葉という存在は、ネガティブに裏付けされると、とても強くなる。

けれど、強い言葉がネガティブな感情を秘めているなら、広告のコピーはどうなんだろう。そんな思いの中で読んだ本があった。

広告をナメたらアカンよ。

広告をナメたらアカンよ。

 

この本、ただの広告の本ではない。なんというか今までにあった有名な広告がどのように作られて、どのような時代背景を投影したものなのかを筆者が考察し、実際に作った張本人が少しだけネタバラシをするという本。この中で僕の考えていたことが全く裏付けされなくなってしまうようなコピーライターがいる。

それが眞木準という今は亡きコピーライターだ。

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全て眞木準のコピー。

特に刺さるのは

"四十才は二度目のハタチ。"

という言葉。このコピーで当時中年のオシャレ意識が向上し、伊勢丹の売り上げは大きく伸びたらしい。

本題に戻ると、眞木準のコピーはかなりポジティブな印象を受ける。

ホンダを買うボーイ

もそうだけれど、オシャレなダジャレのようでネガティヴなイメージをまったく感じさせない。のに強い。

 

やっぱりネガティヴだけが強い言葉を作るっていうのは誤解だったのかなーと思った時、学校の元コピーライターの先生との話で衝撃を受けた。

コピーの受賞歴もあるその先生が、受賞した時のコピーについて話していた時のこと。

どうしてそのコピーができたかという話で、その先生は

「当時の若い男女の恋愛にムカついてた」

と話したのだ。驚いた。恋愛のコピーを書くような人ではないイメージ(失礼)だったので、尚更だった。

先生は、そこからコピーにしていくときに、自分の思っていることをポジティブシフトさせていくらしいのだ。

ポジティブシフトをどれだけ上手くキメられるか。それがプロの腕の見せどころなようだ。

その話を裏付けるように、とある古本を読んでいるとき、眞木準のコラムが載っていた。

そこで彼はこう書いていた。

世の中に簡単に作れるものなんてない。

コピーは、孤独から生まれる。明るい言葉をつかもうとする人間の顔は、逆に暗い。「トースト娘ができあがる。」は、地下鉄のホームで線路の闇を見つめている眼底に浮かび上がった。

なるほど、明るくて強い言葉は元々明るくないってことなのか。オシャレなダジャレは心の暗がりから浮かび上がっているんだな。誰しもあるだろうネガティヴな感情をポジティブに吐き出せたらさぞかし楽しいだろうなあ。

僕も人の心に突き刺さるポジティブシフトを決めてみたい、強い言葉を吐き出したい、そう思った。