僕のファンタジークラブ 後編

前編はこちら

僕のファンタジークラブ 前編 - それなら最後に踊ろうよ

 

5/24にリリースされた「FANTASY CLUB」

このアルバムを聞いて自分の問題意識と重なる部分もあってか、衝撃を受けた。ひしひしと感じるtofubeats氏の苦悩。それはストーリーとなってアルバムに載っていたように思える。

 

僕なりにこの「FANTASY CLUB」がどんなストーリーだったのかを、まとめてみよう。

 

M1のCHANT #1ではある種、今回のアルバムの結論を言っているようなイントロで始まる。知るということの恐怖。

移り変わる世の中はストーリー 

いつの間にか思ってない方に ああ

恐ろしいもの 触れてしまう時

これ以上もう気づかないで

CHANT #1 / tofubeats

CHANT #1

CHANT #1

「知って良いことなんて、もしかしたらないのかも。なら知る必要なんてない、気づく必要なんてない。」僕は歌詞を見て、実際に音楽を聴いて、視聴者に対して注意書きならぬ注意聞きをさせているなと感じた。「それでも聞くの?それってもしかしたら知る必要のないことかも。それでも聞きたいなら聞いてね。」と覚悟を迫られる気分にさえなるのだ。

そんな覚悟を問うたのちに流れ込んでくる楽曲が、前述した「SHOPPINGMALL」だ。

SHOPPINGMALL (FOR FANTASY CLUB)

SHOPPINGMALL (FOR FANTASY CLUB)

 「今の社会って僕はこう思うんです。でもそれって良いことには思えないんです。何を信じて生きていけばいいの?」という思いが素直に表現されている。

そんな暗中模索の中、「同じような思いを持っている人って、たぶんどこかにいる。どこかはわからないけど、大声で叫べば、もしかしたら声は届くかも。踊り続ければ、もしかしたら探し出せるかも。」と歌うのがM3「LONELY NIGHTS」

LONELY NIGHTS

LONELY NIGHTS

「もしかしたらこの人?でも違うかも?やっぱり本当のことなんてわからない。とりあえずは一緒に踊ったけど、よくわからない。結局孤独じゃん。」と一瞬見えた光明も、幻のような存在に感じて、一瞬は消えた孤独も、また見え隠れし始めてくる。他人と触れ合うことで解決しようとする、そんな自分以外の誰かを表現するためにも、YOUNG JUJUの存在は大きいだろう。そして、その後「答えはどこ?どうすればいいの?」となるのがM4「CALLIN」

真夜中のphonecall

見えない所からまなざしを

真夜中のphonecall

知りたくないこと 知りたいことがある

CALLIN / tofubeats

CALLIN

CALLIN

  知りたいことを知ろうとすればするほど、知りたくないことも耳に入る。確かにそれは辛いことだが、そういった過程を経て、M5の「OPEN YOUR HEART」が来る。

正解や正しさはたぶん自分のやりたいことをやれば見えてくるんじゃないか?自分のしたいことに素直になろう。やりたいことをやってみよう。という中でM6「FANTASY CLUB」M7「STOP」というインストの2曲が入る。

そうした自分と向き合った後に人と関わりあうと、不思議と世界の見え方が変わっていた。またそうしたマインドで向き合った人は、自分の持っていないものを持っていて、それはもしかしたら自分の求めているものかもしれない。知らないことを知ること、それが、自分を作り、ひいては求めているものに辿り着けるのかもしれない。そんなマインドを歌っているのがM8「WHAT YOU GOT」

夜から朝までparty

窓開けたらめちゃsunny

何を得たのかわからない

取り出して並べてみたい

新しい音たくさん浴びたいまだまだ 不完全

君と踊りたいしうまくいきたい

他のこととか別にいいよ

WHAT YOU GOT / tofubeats

WHAT YOU GOT

WHAT YOU GOT

 自分を知るという一つのプロセスを経た後の、人との出会いは確実に希望であり、そこに何かしらのモノやヒントを求めていた。そしてその出会いは、今までの自分には全くなかった穏やかな気持ちを授けてくれる出会いであった。その穏やかな時間から「答えなんてない。答えを出して何になる?それって愛の形に正解を求めるようなものだ」という気持ちをメロウに表現するのがM11「YUUKI」

踏み込んだ道の途中

きっと何かの感情

歩き出すその勇気

持っているだけできっと

大丈夫

愛しあう

It's Sunny Sunny Sunday

晴れた日には街に出かけよう

いつかは噛み合って

どんな時も君に

会いたいな

YUUKI / tofubeats

YUUKI

YUUKI

 この経験から得たものは大きく、そして意外なものであった。自分が忘れていたような感情、それは晴れた日曜日は外に出かけてみるとか、気づけば笑っちゃうようなことだったけれど、忘れていた感情を思い出すと、今自分が抱えている答えなき問題の捉え方も変わってくる。そんな自分にいろんな感情を思いださせてくれる、そんな存在に導かれている自分を歌うM12「BABY」

BABY 君だけを見て 君だけを見て

導かれる 導かれる ナナナナ

BABY / tofubeats 

BABY

BABY

 そして自分の求めている真実や答えがあると思ってきた、桃源郷のような存在の「FANTASY CLUB」はリアリティにかける存在ということをわかりつつも、どこかで出会えれば良いな、という希望を抱く存在として彼の中に居続ける。

FANTASY CLUB

入れたらいいな

信じたいことを

信じたらいいじゃん

でも簡単には

いかないしなって

音鳴らしたりした

FANTASY CLUB

CHANT #2 / tofubeats 

CHANT #2 (FOR FANTASY CLUB)

CHANT #2 (FOR FANTASY CLUB)

 ここまでのプロセスで、答えという一様なものを求めすぎていた自分に気づく。そしてそれは間違っているわけではないけど、たぶん答えなんて死ぬまでわからないかもしれない。もしかしたら死んでもわからないかもしれない。そんな永遠とも言える問いに対して、思いつめて考える必要なんてないのかもしれない。だったら自分にできること、それをやり続けていくことが、何よりも真実に近づける一つの答えだったのではないだろうか。

そしてその答えにたどり着いた氏自身の成長、そして気持ちがイントロ曲とアウトロ曲のCHANTにとてもよく表れている。自分の抱える問題を一つ乗り越えた感じがするのだ。

tofubeats氏のメジャーデビューしてからの音楽性は良し悪しではなく、かなりポップなものになった。First Albumしかり、POSITIVEしかり。音楽性を見失ったという印象ではなかったが、メジャーという世界で模索している姿を曲から感じた。

だが彼自身の一番の躍進となったきっかけの曲「水星」はポップさの中にどこか暗さがあるといったそんな曲だったように感じる。そして何より、人となりが表れていた曲だと思っている。それは今までただ逃げのように「エモい」と表現していたが、そのエモさこそ、tofubeats自身の人となりなのではないか。と「FANTASY CLUB」を聞いて確信した。

今回のアルバム、一番最後にやった作業がCHANT #2のアウトロを作ることだった。ピッチが下がっていってそのまま終わるのも悪くはないが、どうもアルバム全体が締まらないような気がして何日も頭を悩ませていた。

(中略)

いろいろ思慮を巡らせつつ、今回はフィールドレコーディングにしてみたらどうか、と思い、とりあえずレコーダーを持って、いろんな場所に向かってみて、音を録ってみることにした。普段外では音楽を聞きながら歩いているので、そこでどんな音が流れているのか、改めて見つめ直すことはとても新鮮で意味のあることだった。

例えば最後に聞こえる汽笛の音がそうだ。神戸にいれば実は結構な山側にいても汽笛の音が聞こえることはよくある。海に出るまで20分〜30分以上かかるであろう場所でも、山地を背にした神戸でそれが聞こえることはおかしいことではない。ただ、こうして録音してみないと汽笛が普段聞こえていることなんてすっかり当たり前になってしまい、忘れてしまっているのだ。教会の鐘の音もそうである。人間の耳というのは都合よくできていて、知らず知らずのうちに驚きのないものは奥の方に仕舞い込んでしまう。レコーダーで録音することによってそんな音の数々を洗い出していった。そうして自分が好きで何度も向かっている場所からいくつかの音を集めて、それらの音が重なって再生してアルバムは終了する。大体は自分が一人で気分転換に向かう場所の音だ。今回は晴れの日を待つ余裕もあったのもラッキーだった。

「FANTASY CLUB」初回限定ライナーノーツより tofubeats

自分を育ててくれた場所が荒廃し始めている悲しさ、そのことから感じる孤独。荒廃に対する少しの怒り。そんな一気にはとても消化できないであろう息苦しさ。それを解消してくれるのは、他人でも、環境でもなく、自分自身の行動や気持ちの持ちようでしかなかった。答えはいつも自分の中にある(のかも)、というような答えとも言えない、付け焼き刃のような答えでも、氏にとっては少しだけ胸を撫で下ろせるような、そんな答えであったに違いない。そんな一種の答えまでに辿り着くまでのプロセスをストーリー化したものが、「FANTASY CLUB」なのだろう。

 こうしてファンタジークラブは終わる。

僕のファンタジークラブはどこにあるんだろう。

そんな事を考えながら、無機質にイヤフォンから流れる神戸の汽笛を聞いていた。

 

 

前編はこちらから。

僕のファンタジークラブ 前編

後編はこちら

僕のファンタジークラブ 後編 - それなら最後に踊ろうよ

 

何から書けばいいだろう。

突き動かされるようにして、ブログを開いた。

いろんな物事が折り重なって、僕はアイスコーヒー片手にこの文章を書いている。

とにかく書いていこう。

5/24「FANTASY CLUB / tofubeats」が発売された。

 

2ヶ月前に「BABY」という曲のPVと共にアルバムの情報がリリースされ、この日を一ファンとして待ち望んでいた。

実際に聞いてみると、アルバムは想像以上の出来だった。前作のPOSITIVEやFirst Albumと比べると、そこには確実にtofubeats氏の人となりがとても現れているように感じたのだ。

アルバム全体としての完成度が高いと言ったが、一曲一曲を個別で聞くのではなく、アルバムを通しで聴いてこそ、このアルバムの真価は発揮される。今回のアルバムは、通しで聞かせることに意味を持たせた、今の音楽界では一風変わった切り口で展開されているアルバムだろう。

確かに今までつながりのあるアルバムがなかったかと言われれば、それはそうではない。僕をクラブミュージックの虜にしたキッカケのアーティストであるm-floは2001年にリリースした「EXPO EXPO」というアルバムで仮想の万博をイメージしたストーリー設定でアルバムが進んでいく。特にM1からM2の流れは当時の音楽界にとっては衝撃的な感覚だったと思う。僕自身も、あの当時にしてみれば面白い作品だったなと16年前を思い返して、今思う。

 

音楽は今激動の時代を乗り越えようとしている。レコード、カセット、CD、MD、ときて今ではmp3の時代。そして誰もが音楽というものに対して、お金を払うことを忘れた。とにかく音楽にとって今は、何が正しく、何が売れるものなのか。それが毎日常に変化しているような時代なのだ。その時代にポツンと、このFANTASY CLUBというアルバムは現れた。

tofubeats氏自身は前作POSITIVEをリリースするプロセスで「ニーズ」というものがわからなかくなったそうだ。

聴き手の好きなものなんてわかんないのに、「こんなん好きでしょ?」と出すのをいまやるのは失礼かなと。そんな風にやるのはやっぱり無理、というか……、あのときは「ポジティヴ」という言葉があったからなんとか明るい方向でまとまったんですけど、「みんなの総意」みたいな部分でいうと、もうそんなものはなかったと。

『POSITIVE』を作って、やっぱりそんなものはわかんないとあらためて思ったんです。みんながなにを好きなのかなんてわからないと、だったら、その「わからない」と真剣に向き合ってみようと。ノリや理屈で突破するっていうんじゃなくて、とにかく「わからない」と向き合ってみようと。

言ってしまえば当たり前の話でもあるのだが、音楽というものにそもそも一様なニーズがあることの方が特殊なはず。ここで確実に言えることは、今はアーティストがアーティストであり続けることの難しさ、であろう。

昔のアーティスト、特に僕のイメージで言えば、アーティストは

受け手からすれば神のような存在で、俺が好きなものを見てくれよ。俺が好きならお前らも好きだろ?という少しジャイアン的なものというか、押し付けなイメージが強い。「心酔」という免罪符を手に入れたアーティストが多かったのも事実だし、心酔を勝ち取れるキャラの強いアーティストがいたことも事実だろう。

氏の話に戻れば、音楽の一様なニーズがない中で、メジャーとして曲を売らなければいけないということ。そして自分のあり方というもの。そういったものをどういった形で社会に対して打ち返していくか。そういった問題意識があるように思えた。そしてアーティストである以前にクリエイターでもあるtofubeats氏らしい問題意識でもあるように思えた。

そして、そんな問題意識の裏には、氏の名前を世界中に知らしめるために必要不可欠だったインターネットが抱える問題も大きい。

インターネットで起こった事件といって必ず挙がるものの一つとして、welqの不祥事があるだろう。welqの不祥事は、インターネットという存在意義を改めて考えさせられる問題であったのと同時に、現在進行で社会に横たわる問題を表出させるキッカケにもなった。

その問題とはニーズという「数字の生む勘違い」である。

簡単にいえば、テクノロジーの進化によって様々なものが数値化できる社会になった今、

数字が良いこと=善いこと

と捉えがちになっている社会があること。そしてその結果、数字をただ追い求めたインターネットメディアが分かりやすく問題として社会に表出した。そして何よりも問題なのは

「数字が良いこと=善いこと」と「数字が良いこと≠善いこと」の

乖離が進んでいること。また後者の意見を支持する人が減少しているということ。それはつまり、測定できない価値は無価値と捉えられがちな社会になりつつあるということだ。

僕自身、この問題を「勘違い」と捉えているので数字至上主義になりつつある社会に疑問符を持っている。そして数字至上主義となった社会における、インターネットの世界はパソコンでインターネットを見るのが当たり前な世代からすると、前に比べて低俗なものになっている気がしてならないのだ。FANTASY CLUBのライナーノーツでtofubeats氏はこう述べている。

インターネットを始めたころは面白いものが昔よりもっと評価されやすくなる未来がくるぞ!と信じていたが、今となっては全く逆で、全てがバズみたいなものと結びつけられていけば、物事はきっとさらに低い所に流れていくだろうと思う。倫理みたいなものもどんどん無くなっていくのだろうか、そんな時に自分の聞きたいような音楽を作ってくれる人は出てくるのだろうか…と考えるとあんまり明るい気持ちになりにくい。本当に人間が求めているものは下世話な話題だけだったりするのかもしれない。

かつて氏自身を知るきっかけ、知られるきっかけであったインターネットの世界は文化的なものを次第に蔑ろにし、荒野のようなものになっているのかもしれない。 そんな考えが氏自身の孤独や、FANTASY CLUBの2曲目にある「SHOPPINGMALL」というものを生み出したと考えられないだろうか。

何がリアル 何がリアルじゃないか

そんなことだけでおもしろいか

何がいらなくて 何がほしいか

自分でも把握できてないな

(中略)

最近好きなアルバムを聞いた 特に話す相手はいない

SHOPPINGMALL / tofubeats

 またele-kingでのインタビューでは、

ポスト・トゥルース”が物語るのは、それがもはや「ぼくたちのインターネット」ではないということだと思う。もうそれは「インターネットの次の時代」の話というか、ぼくたちみたいに比較的最初のほうにパソコンでインターネットに触れていた人たちが陥っている状況というよりも、あとからスマートフォンで入って来た受ける側にしかいない人たちの話ですよね。

 というように、かつて自分が育ったインターネットという土壌の変化や、その変化から感じる孤独というものが手に取るようにわかる。そして今作FANTASY CLUBは、そういった社会に対する問題意識に対して、一種の答えを提示するとともに、氏自身の答えまでを得るプロセスが描写されているように思える。それがひとつのストーリーとなって僕たち視聴者に届いている。そのストーリーを僕は完全に感じてしまった。氏は自分の思いを曲に載せ、アルバムという曲順が重要になってくる作品で、ストーリーを持たせた。そしてどんなストーリーとして映ったか。そこにどんなストーリーがあったのか。それを模索していきたい。

 

後編はこちら。

孤独と思い出について。

 

インターネット的 (PHP文庫)

インターネット的 (PHP文庫)

 

 最近、こんな本を読んだ。

糸井重里さんの有名な言葉に

「Only is not Lonely」という言葉がありますが、その言葉が生まれた経緯などが冒頭に書いてあって面白い。インターネットって確かに個性を個性のままにしないというか、自分だけじゃないんだって気持ちにさせてくれる強さがある気がしてる。

 

さてそんな今回は、「孤独」について。

最近すごく孤独という言葉を耳にするようになった。たぶん新学期が始まって、色んな人と出会って、人の色んな部分に触れたりして、ちょうど今、人疲れをするような時期なんじゃないかなって個人的には思ってる。色んな人に囲まれると孤独って際立つしね。

でも色んなタイミングで孤独は生まれる。

別にそこに人がいようがいまいが、孤独の登場に人の有無は関係ないのが実情。話のリズムとか内容とかが、ことごとく合わない環境に身を置いたりすると、

「信じられん」

みたいなマインドになったりする。でもそれって不満をまとった孤独みたいなもの。

クリスマスになるとツイッターでは「リア充死ね」とか「クリスマスなんていらない」とかよくそういうツイートを見るけど、あれも孤独の産物だと思っている。

たくさん周りに人はいる(しかも超幸せそう)けど、どこか疎外感を感じる。というか感じにいってる。クリスマスとか他人が楽しそうにしてるものに対して疎外感を感じるのって意外と簡単なんだ。

「ふん、こんなもの。子供じみてる」

この一言とイヤフォンの音量+ボタンを押せば、はい出来上がり。君は孤独だ。特にクリスマスっていうのはクリスマスツリーとか、色々象徴的なものが多すぎて、恨みの的になりがちって話もあるけど、まぁその話は関係ないっちゃないか。

 

いろんな孤独が自分を大人にしてくれたような気がしているけど、その反面、その場を楽しめていな自分は、一生その場に取り残されているような気もして。でもそんな自分を振り返って見返したりはしないわけだけど。そんな中で大人になればなるほど、慢性的な孤独って増えてきてて。

「あぁこれが大人なら、大人になるってなんてつまらない事なんだろう」

とか思ったりもするけど、時間は誰にも止められない。秒針が動くたびに、確実に寿命は縮まってる。僕も。目の前のおばさんも。ギャーギャー騒いでるそこの子供も。この増え続ける孤独に誰も抗えない。ただただその孤独を黙って通り過ぎるのを待つんだ。

 

ある日、かかっていたラジオからBlue MagicのSideshowが流れて、母が反応した。


Blue Magic - Sideshow

「うわーこれ私、クリスマスのマンハッタンで乗った友達の車で流れてたわ。センス良かったんだなぁ。まぁ編集者だったしなぁ。」

バブルを生きた人たちは、孤独な思い出と無縁そうで、なんか楽しそうだ。というか本当、今って人と共有できる思い出を中々作れない時代になった。

だって僕にはマンハッタンで一人フランクシナトラを聞いた、みたいな思い出しかなくて、当然誰かと行ったみたいな思い出もない。ニューヨークに行くときは、なぜかいつも一人。

だから同じ空間で、同じタイミングで、同じ曲を聞いた人がいるって今の時代とっても貴重な思い出だし、体験だと思うんだ。

そんな思い出を作れるの、大学生までなんだろうな、と思ったら突然焦りが生まれた。

誰かと旅行に行きたい、誰かとフェスに行きたい、誰かと映画を見に行きたい!

今この時間って今しかない。孤独だと思ったら手当たり次第に連絡をして少しでも同じ体験を共有しよう、そう思った。別にそれって恥ずかしい事じゃないはず。

そんな体験や思い出、僕にはまだまだ少ない気がするから、これからもっともっと作っていきたい。そして俺も30年後に言うんだ。

「あ!これ!大学3年の時に当時の彼女と一緒に聞いた曲!」

って。

 

 

強い言葉とは。

 

もうここ2年くらい気にしているトピックが”言葉”。

言葉って本当に面白くて、言い方によって相手に伝わる印象が本当に変わる。

「君が好きだ」って言葉はストレートで、気持ちの真っ直ぐさが伝わる。

「君の瞳に恋してる」なら、その部分に特別感情を抱いている気持ちが見て取れる。

というように一つの感情を伝えるのに様々な通り道が存在しているのが言葉で、そんな言葉の多様性に、常日頃僕は魅せられているわけです。

 

そんなある日、というか4月に入って言葉について気がついたことがあって、それが今回のエントリーのテーマ。

それは「言葉の強さ」

言葉に強いも弱いもある?って思うけど、刺さる言葉とか忘れられない言葉って誰しもあると思う。

僕なら映画監督のマーティンスコセッシが2014年のニューヨーク大学卒業スピーチで言った

「Everyday is a Rededication (毎日が創造活動のチャンスだ)」

という言葉。

 

Martin Scorsese - Honored Speaker at Tisch Salute 2014 from Tisch School of the Arts on Vimeo.

これは本に文字起こしされるくらい有名なスピーチなので、一度英語の勉強がてら見てみるといいかもしれない。ぶっ飛ぶ。

そういうように、言葉のツヤとか、目立ち具合ってやっぱり多少あって、一言でポーンって放った言葉が人の心に深く突き刺さることってある。

そんな中で僕自身が感じていたことは

「強い言葉はネガティブな感情から生まれるのではないか?」

ということ。

確かにマーティンスコセッシは順風満帆な映画監督人生ではない。このスピーチでもスポンサーが取れなくて苦しんだ話をしていたから、やっぱり映画を楽しんで撮っているだけではないんんだろうということは想像がつく。

ネガティブな感情っていうのは基本的にコンプレックスや嫌な思い出とかからくるもので、案外そういうのって好転しないもの。だからこそ、ネガティブのパワーっていうのは中々落ちていかないんだろう。それがゆえに、ポジティブな感情と比べた時に、ネガティブな感情っていうのは パワーの面で勝っていくし、結論感情の表現として長けている言葉という存在は、ネガティブに裏付けされると、とても強くなる。

けれど、強い言葉がネガティブな感情を秘めているなら、広告のコピーはどうなんだろう。そんな思いの中で読んだ本があった。

広告をナメたらアカンよ。

広告をナメたらアカンよ。

 

この本、ただの広告の本ではない。なんというか今までにあった有名な広告がどのように作られて、どのような時代背景を投影したものなのかを筆者が考察し、実際に作った張本人が少しだけネタバラシをするという本。この中で僕の考えていたことが全く裏付けされなくなってしまうようなコピーライターがいる。

それが眞木準という今は亡きコピーライターだ。

f:id:alltempo:20170505194440j:image

 f:id:alltempo:20170505194503j:image

f:id:alltempo:20170505194451j:image

f:id:alltempo:20170505194619j:imagef:id:alltempo:20170505194628j:image

全て眞木準のコピー。

特に刺さるのは

"四十才は二度目のハタチ。"

という言葉。このコピーで当時中年のオシャレ意識が向上し、伊勢丹の売り上げは大きく伸びたらしい。

本題に戻ると、眞木準のコピーはかなりポジティブな印象を受ける。

ホンダを買うボーイ

もそうだけれど、オシャレなダジャレのようでネガティヴなイメージをまったく感じさせない。のに強い。

 

やっぱりネガティヴだけが強い言葉を作るっていうのは誤解だったのかなーと思った時、学校の元コピーライターの先生との話で衝撃を受けた。

コピーの受賞歴もあるその先生が、受賞した時のコピーについて話していた時のこと。

どうしてそのコピーができたかという話で、その先生は

「当時の若い男女の恋愛にムカついてた」

と話したのだ。驚いた。恋愛のコピーを書くような人ではないイメージ(失礼)だったので、尚更だった。

先生は、そこからコピーにしていくときに、自分の思っていることをポジティブシフトさせていくらしいのだ。

ポジティブシフトをどれだけ上手くキメられるか。それがプロの腕の見せどころなようだ。

その話を裏付けるように、とある古本を読んでいるとき、眞木準のコラムが載っていた。

そこで彼はこう書いていた。

世の中に簡単に作れるものなんてない。

コピーは、孤独から生まれる。明るい言葉をつかもうとする人間の顔は、逆に暗い。「トースト娘ができあがる。」は、地下鉄のホームで線路の闇を見つめている眼底に浮かび上がった。

なるほど、明るくて強い言葉は元々明るくないってことなのか。オシャレなダジャレは心の暗がりから浮かび上がっているんだな。誰しもあるだろうネガティヴな感情をポジティブに吐き出せたらさぞかし楽しいだろうなあ。

僕も人の心に突き刺さるポジティブシフトを決めてみたい、強い言葉を吐き出したい、そう思った。

 

 

出会いの春を迎えるための別れという存在。

 

コートを着なくなり、段々と春の兆しを感じはじめてきた今日。

 

ようやく先日、春を迎えられたなと感じた出来事があった。

僕の中で春というのは「出会いの春」であり、別れとか悲しさとか、そういった類の感情は春という季節に含まれておらず、どちらかといえば、出会いとか新しいような芽吹きを感じるのが、春という認識だ。

 

だから春を迎えるには別れというものを乗り越えて春に向けた準備をしないといけない。

そんな中、3月の最終週には様々な人との別れがあった一週間だった。

追いコン、卒業式、自分とたくさんの思い出を共有している人達が社会人になっていく。

その姿は逞ましくもあったが、様々な人と「あんなこともあったねー、こんなこともあった」というように、追体験を共有して、より思い出というものを深く胸に刻んでいるようでもあった。そんな社会人になる前の悪足掻きとも言えるような姿を目の前にして、僕も同じようにその人その人との中にある思い出を箱の中から取り出しては、奥深くにしまうという行為を繰り返していたように思う。

冷静に考えてみれば、別に社会人になるということは死ぬことではないし、会おうと思えばたぶんそれなりにすぐ会えるだろう。

頭の中ではわかっているつもりでも、共に朝まで遊び尽くし、飲み尽くした先輩が学生から社会人になり、違う世界に飛び込んでいく姿を見るのは、やはり寂しいものだった。

 

高校から大学、大学から社会。

そのプロセスの中で幾度となく別れを体験してきた。

けれど、別れは何度経験しても慣れないものだ。思い出の形は相手によって変わるし、形が違えば思い出の処理も違う。そうやって様々な別れの形が存在しているんだと思う。

なにより、追いコンで一緒に朝まで飲んだ先輩は、その日の午後一の新幹線で大阪に経とうとしていた。

本人は「見送られるのが苦手」と言っていたが、午後一の新幹線には期待も入り混じっているように思えた。

抱えきれないほどの思い出話に花を咲かせて、僕は夜が明けぬうちに店を出た。やらなきゃいけないことがあったのは事実だが、なにより卒業する先輩と一緒に朝日を見たくなかった。この夜が終わる瞬間に立ち会っていたくなかった。僕の中で整理がついていなかったのだ。

 

そうして自分の家で朝日をじっと見た後、シャワーを浴びて次の用事を済ますため家を出た。

 

その日、ランチを食べようと、店を探しつつ、インスタグラムのストーリーを眺めていた時。

同期のストーリーの中に新幹線に乗り込む先輩の姿があった。

その顔にはたくさんの涙があって、15秒の動画で全てを理解できた。

僕は思わず、足を止めて動画を眺めていたが、深呼吸をして、すぐに歩き出した。

僕の思い出がしっかりと箱の奥に収まった瞬間だった。

僕はそうして春を迎えた。来週は新しい後輩が入り、すでに新しく増えた同期もいる。

一歩一歩しっかりと新たな春を踏み出した足音が聞こえていた。

 

大学の先輩方、インターンの先輩方、良き春を。またどこかで会ってくださいね。

女性の幸せを考えてみた。

「美貌格差」
 
という言葉をご存知だろうか。
2015年、経済学者のダニエル・ハマーメッシュが論じたこの格差は「美人と不美人の生涯格差」について研究したもので、「美貌格差」はその結果が記されている書籍のタイトルだ。
その内容を簡単にここに記すと、

平均点の女性を基準にした場合、美人は平均女性よりも8%収入が多く、逆に不美人は4%少ないという結果が出た。これを大卒のサラリーマンの生涯賃金である、平均約3億円にあてはめて計算した場合、美人は約2400万円のトクをし、不美人は1200万円の損になるということ。つまり、美人と不美人の「生涯賃金格差」は3600万円にもなるのだ。

 というもの。今を生きる女性たちが「あの子は可愛いから」と言って、片付けてしまっていることを大真面目に研究した結果が事細かに記されている。

 

美貌格差: 生まれつき不平等の経済学

美貌格差: 生まれつき不平等の経済学

 

 

ところで最近では「女性の幸せ」を説くと言った類の書籍、ドラマなどが多いと、個人的に感じているのだが、私はそこから現代における「女性それぞれの幸せのカタチ」を少し考えていた。

 

現代の女性にもっとも浸透していると言えるのが、「東京タラレバ娘」だろう。

 これは「もっといい男がいる!」と思い続け、気付いたらアラサーになっていて、結婚に対して焦りを持ち始める、といった内容なのだが、これがまたリアリティに欠けている。エンタメ作品としては非常に面白いし、人間味は非常にある仕上がりなのだが、今の時代、仕事を放り投げてまで「結婚したい!」と思い女性は少ないのではないかというのが僕自身の肌感覚だ。(様々な人に読んでもらうために”ありがちな”設定をチョイスしたのかなとも思う)

 

だが、より女性の生態を表すものとして、僕の周囲でたびたび耳にするのが、

Amazonビデオの「東京女子図鑑」だ。

Amazon CAPTCHA

これは秋田から就職のために上京してきた女性(水川あさみ)が、如何にして東京に馴染み、東京に染まっていくか。それを恋愛や仕事模様と合わせて話が進んでいくドラマで、様々な男性と出会い、水川あさみがどのように変化していくのかが面白い部分だ。

ここから先はネタバレになるので、もし見ていない方がいたら、読み飛ばしてほしい。

 

最終的に水川あさみは新卒で入った会社の先輩で、転職しても相談役になっていてくれた言わば「最高の男友達」とマンションの一室を購入し、同棲しているシーンで話が終わるのだが、そのラストシーンで、水川あさみ自身が上京時に思い描いていた「理想像」とすれ違う。そして水川あさみはこう言い放つのだ。

これが私のハッピーエンディングかって?どうなんでしょう。

いつまでも上を見せられるこの街で、私と似たような強欲な女たちは目の前の幸せに100%満たされることがないまま、それでもこれでいいのだと、何度も言い聞かせるようにして一歩一歩歩いていくのです。

頑張りましょう?次から次に手に入れたいものが増えていくんですから

これを見た時、結局「負けたんだろ」と言ったのが正直な僕自身の感想だった。

いい男という抽象的な価値を性格やお金、地位などの面から模索したが、そう言った相手と結婚することはできなかった。”落ち着くところに落ち着いた”というのが僕の感想だった。受け手である自分から見えているものは幸せではないのに主人公が幸せそうにしていることに違和感を感じていた。

だがその考えを一気に正の方向に持って行く本とタイミングよく僕は出会うことになる。

それがこの本だ。

男性筆者が女性向けに書いた「良い恋愛」の教科書といった立ち位置の本なのだが、この中で「心の穴」という言葉が多用されている。心の穴とは、自分の性格のクセみたいなもののことを表しているのだが、文中で筆者は

「恋愛とは自分の心の穴を認め、相手の心の穴を理解することだ」

と書いていた。僕はこの「認める」という部分の捉え方が、この本を読むことで考え方が180度変わったのだ。この本を読むことで東京女子図鑑のラストで感じた”違和感”がスッと心に馴染んだのだ。

もう一度先ほどのセリフを見返してみよう。

ハッピーエンディングだと言い聞かせているわけでもなければ、これでいいと言い聞かせているという主人公が「折り合い」をつけているということが見て取れる。だがこの折り合いというものが付けられることはある種、強さの表れではないかと僕は思ったのだ。

理想を追い求めて、現実はこんなもんじゃないと現実を認めずに生きてきた東京女子図鑑の主人公。その結果、理想と現実の格差に耐えきれなくなり、トライアンドエラーを繰り返した。だがそうしているうちに、主人公の周りは結婚し、子供が生まれ、周囲がライフステージを上げていく間に、現実を否定し理想を思い求め続けていた自分はいつの間にか一人だけのような感覚になってしまった。その時に主人公は気付いたはずだ。「自分の周りの小さな幸せを大事にしよう」「自分はその幸せが一番ふさわしいんだ」理想は理想として、自分が今生きている現実は現実として、受け入れて認識したのであろう。その結果が、ラストシーンにはよく表れている。

確かに負けたかもしれない。でも負けていることを無視しているのと、認めているのでは大きい違いがある。認めたからこそ、折り合いの先に幸せがあるということにも気付けるのだ。それは彼女自身にとって、とても大きいことである。

話をドラマの世界から自分たちの現実に戻そう。このドラマと非常に似ている現実世界。理想を追い求めて現実を否定している人もいれば、すでに理想に折り合いをつけて、現実を受け入れている人もいると思う。

その中で折り合いをつけている人は、セレンディピティというものにも気付けるのだろう。

これは周知の事実だが、十人十色という言葉があるように、幸せだって人それぞれだ。人が羨む幸せの形も確かにあるだろう。だが自分にしか理解できない幸せ、それだってその人から見れば”幸せ”といえるだろう。

自分にしかわからない幸せ。

人から羨ましがられる幸せ。

本質的に幸せなのはどっちなんだろう。

その問いに対する答えはもう出ているかもしれない。

生きる音楽を感じて。

 

照明が落ちて僕はグッと息を飲む。
ドラムが音を鳴らせば、
鼓膜が揺れ、内臓が揺れ、血液が揺れて、
自分の体が液体で出来ていることを思い知らされる。
気づけば息は上がってて、自然とステップを踏んで音楽を感じる。
生ぬるく、甘すぎたスミノフを体に流し込めば、
アルコールと共に、じんわりと音が体に沁みてくる。
この空間、この時間というものに自分を乗せていく。今を生きる音楽というものに身を任せる。
僕の体を揺らすこの曲は、いつもiPodで聴いてる曲とは明らかに別物で、マイクを通じてボーカルの息づかいが聞こえてくる。ベースの音が出過ぎてたり、ドラムが出過ぎてたり。
その音楽としての不完全さが、ライブの良さを演出する。
そうして僕は思いのままに踊るんだ。
なぜなら音楽は最高だから。

 

音楽はここで確かに生きていた。

 

f:id:alltempo:20170304211127j:image