孤独と思い出について。

 

インターネット的 (PHP文庫)

インターネット的 (PHP文庫)

 

 最近、こんな本を読んだ。

糸井重里さんの有名な言葉に

「Only is not Lonely」という言葉がありますが、その言葉が生まれた経緯などが冒頭に書いてあって面白い。インターネットって確かに個性を個性のままにしないというか、自分だけじゃないんだって気持ちにさせてくれる強さがある気がしてる。

 

さてそんな今回は、「孤独」について。

最近すごく孤独という言葉を耳にするようになった。たぶん新学期が始まって、色んな人と出会って、人の色んな部分に触れたりして、ちょうど今、人疲れをするような時期なんじゃないかなって個人的には思ってる。色んな人に囲まれると孤独って際立つしね。

でも色んなタイミングで孤独は生まれる。

別にそこに人がいようがいまいが、孤独の登場に人の有無は関係ないのが実情。話のリズムとか内容とかが、ことごとく合わない環境に身を置いたりすると、

「信じられん」

みたいなマインドになったりする。でもそれって不満をまとった孤独みたいなもの。

クリスマスになるとツイッターでは「リア充死ね」とか「クリスマスなんていらない」とかよくそういうツイートを見るけど、あれも孤独の産物だと思っている。

たくさん周りに人はいる(しかも超幸せそう)けど、どこか疎外感を感じる。というか感じにいってる。クリスマスとか他人が楽しそうにしてるものに対して疎外感を感じるのって意外と簡単なんだ。

「ふん、こんなもの。子供じみてる」

この一言とイヤフォンの音量+ボタンを押せば、はい出来上がり。君は孤独だ。特にクリスマスっていうのはクリスマスツリーとか、色々象徴的なものが多すぎて、恨みの的になりがちって話もあるけど、まぁその話は関係ないっちゃないか。

 

いろんな孤独が自分を大人にしてくれたような気がしているけど、その反面、その場を楽しめていな自分は、一生その場に取り残されているような気もして。でもそんな自分を振り返って見返したりはしないわけだけど。そんな中で大人になればなるほど、慢性的な孤独って増えてきてて。

「あぁこれが大人なら、大人になるってなんてつまらない事なんだろう」

とか思ったりもするけど、時間は誰にも止められない。秒針が動くたびに、確実に寿命は縮まってる。僕も。目の前のおばさんも。ギャーギャー騒いでるそこの子供も。この増え続ける孤独に誰も抗えない。ただただその孤独を黙って通り過ぎるのを待つんだ。

 

ある日、かかっていたラジオからBlue MagicのSideshowが流れて、母が反応した。


Blue Magic - Sideshow

「うわーこれ私、クリスマスのマンハッタンで乗った友達の車で流れてたわ。センス良かったんだなぁ。まぁ編集者だったしなぁ。」

バブルを生きた人たちは、孤独な思い出と無縁そうで、なんか楽しそうだ。というか本当、今って人と共有できる思い出を中々作れない時代になった。

だって僕にはマンハッタンで一人フランクシナトラを聞いた、みたいな思い出しかなくて、当然誰かと行ったみたいな思い出もない。ニューヨークに行くときは、なぜかいつも一人。

だから同じ空間で、同じタイミングで、同じ曲を聞いた人がいるって今の時代とっても貴重な思い出だし、体験だと思うんだ。

そんな思い出を作れるの、大学生までなんだろうな、と思ったら突然焦りが生まれた。

誰かと旅行に行きたい、誰かとフェスに行きたい、誰かと映画を見に行きたい!

今この時間って今しかない。孤独だと思ったら手当たり次第に連絡をして少しでも同じ体験を共有しよう、そう思った。別にそれって恥ずかしい事じゃないはず。

そんな体験や思い出、僕にはまだまだ少ない気がするから、これからもっともっと作っていきたい。そして俺も30年後に言うんだ。

「あ!これ!大学3年の時に当時の彼女と一緒に聞いた曲!」

って。

 

 

強い言葉とは。

 

もうここ2年くらい気にしているトピックが”言葉”。

言葉って本当に面白くて、言い方によって相手に伝わる印象が本当に変わる。

「君が好きだ」って言葉はストレートで、気持ちの真っ直ぐさが伝わる。

「君の瞳に恋してる」なら、その部分に特別感情を抱いている気持ちが見て取れる。

というように一つの感情を伝えるのに様々な通り道が存在しているのが言葉で、そんな言葉の多様性に、常日頃僕は魅せられているわけです。

 

そんなある日、というか4月に入って言葉について気がついたことがあって、それが今回のエントリーのテーマ。

それは「言葉の強さ」

言葉に強いも弱いもある?って思うけど、刺さる言葉とか忘れられない言葉って誰しもあると思う。

僕なら映画監督のマーティンスコセッシが2014年のニューヨーク大学卒業スピーチで言った

「Everyday is a Rededication (毎日が創造活動のチャンスだ)」

という言葉。

 

Martin Scorsese - Honored Speaker at Tisch Salute 2014 from Tisch School of the Arts on Vimeo.

これは本に文字起こしされるくらい有名なスピーチなので、一度英語の勉強がてら見てみるといいかもしれない。ぶっ飛ぶ。

そういうように、言葉のツヤとか、目立ち具合ってやっぱり多少あって、一言でポーンって放った言葉が人の心に深く突き刺さることってある。

そんな中で僕自身が感じていたことは

「強い言葉はネガティブな感情から生まれるのではないか?」

ということ。

確かにマーティンスコセッシは順風満帆な映画監督人生ではない。このスピーチでもスポンサーが取れなくて苦しんだ話をしていたから、やっぱり映画を楽しんで撮っているだけではないんんだろうということは想像がつく。

ネガティブな感情っていうのは基本的にコンプレックスや嫌な思い出とかからくるもので、案外そういうのって好転しないもの。だからこそ、ネガティブのパワーっていうのは中々落ちていかないんだろう。それがゆえに、ポジティブな感情と比べた時に、ネガティブな感情っていうのは パワーの面で勝っていくし、結論感情の表現として長けている言葉という存在は、ネガティブに裏付けされると、とても強くなる。

けれど、強い言葉がネガティブな感情を秘めているなら、広告のコピーはどうなんだろう。そんな思いの中で読んだ本があった。

広告をナメたらアカンよ。

広告をナメたらアカンよ。

 

この本、ただの広告の本ではない。なんというか今までにあった有名な広告がどのように作られて、どのような時代背景を投影したものなのかを筆者が考察し、実際に作った張本人が少しだけネタバラシをするという本。この中で僕の考えていたことが全く裏付けされなくなってしまうようなコピーライターがいる。

それが眞木準という今は亡きコピーライターだ。

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全て眞木準のコピー。

特に刺さるのは

"四十才は二度目のハタチ。"

という言葉。このコピーで当時中年のオシャレ意識が向上し、伊勢丹の売り上げは大きく伸びたらしい。

本題に戻ると、眞木準のコピーはかなりポジティブな印象を受ける。

ホンダを買うボーイ

もそうだけれど、オシャレなダジャレのようでネガティヴなイメージをまったく感じさせない。のに強い。

 

やっぱりネガティヴだけが強い言葉を作るっていうのは誤解だったのかなーと思った時、学校の元コピーライターの先生との話で衝撃を受けた。

コピーの受賞歴もあるその先生が、受賞した時のコピーについて話していた時のこと。

どうしてそのコピーができたかという話で、その先生は

「当時の若い男女の恋愛にムカついてた」

と話したのだ。驚いた。恋愛のコピーを書くような人ではないイメージ(失礼)だったので、尚更だった。

先生は、そこからコピーにしていくときに、自分の思っていることをポジティブシフトさせていくらしいのだ。

ポジティブシフトをどれだけ上手くキメられるか。それがプロの腕の見せどころなようだ。

その話を裏付けるように、とある古本を読んでいるとき、眞木準のコラムが載っていた。

そこで彼はこう書いていた。

世の中に簡単に作れるものなんてない。

コピーは、孤独から生まれる。明るい言葉をつかもうとする人間の顔は、逆に暗い。「トースト娘ができあがる。」は、地下鉄のホームで線路の闇を見つめている眼底に浮かび上がった。

なるほど、明るくて強い言葉は元々明るくないってことなのか。オシャレなダジャレは心の暗がりから浮かび上がっているんだな。誰しもあるだろうネガティヴな感情をポジティブに吐き出せたらさぞかし楽しいだろうなあ。

僕も人の心に突き刺さるポジティブシフトを決めてみたい、強い言葉を吐き出したい、そう思った。

 

 

出会いの春を迎えるための別れという存在。

 

コートを着なくなり、段々と春の兆しを感じはじめてきた今日。

 

ようやく先日、春を迎えられたなと感じた出来事があった。

僕の中で春というのは「出会いの春」であり、別れとか悲しさとか、そういった類の感情は春という季節に含まれておらず、どちらかといえば、出会いとか新しいような芽吹きを感じるのが、春という認識だ。

 

だから春を迎えるには別れというものを乗り越えて春に向けた準備をしないといけない。

そんな中、3月の最終週には様々な人との別れがあった一週間だった。

追いコン、卒業式、自分とたくさんの思い出を共有している人達が社会人になっていく。

その姿は逞ましくもあったが、様々な人と「あんなこともあったねー、こんなこともあった」というように、追体験を共有して、より思い出というものを深く胸に刻んでいるようでもあった。そんな社会人になる前の悪足掻きとも言えるような姿を目の前にして、僕も同じようにその人その人との中にある思い出を箱の中から取り出しては、奥深くにしまうという行為を繰り返していたように思う。

冷静に考えてみれば、別に社会人になるということは死ぬことではないし、会おうと思えばたぶんそれなりにすぐ会えるだろう。

頭の中ではわかっているつもりでも、共に朝まで遊び尽くし、飲み尽くした先輩が学生から社会人になり、違う世界に飛び込んでいく姿を見るのは、やはり寂しいものだった。

 

高校から大学、大学から社会。

そのプロセスの中で幾度となく別れを体験してきた。

けれど、別れは何度経験しても慣れないものだ。思い出の形は相手によって変わるし、形が違えば思い出の処理も違う。そうやって様々な別れの形が存在しているんだと思う。

なにより、追いコンで一緒に朝まで飲んだ先輩は、その日の午後一の新幹線で大阪に経とうとしていた。

本人は「見送られるのが苦手」と言っていたが、午後一の新幹線には期待も入り混じっているように思えた。

抱えきれないほどの思い出話に花を咲かせて、僕は夜が明けぬうちに店を出た。やらなきゃいけないことがあったのは事実だが、なにより卒業する先輩と一緒に朝日を見たくなかった。この夜が終わる瞬間に立ち会っていたくなかった。僕の中で整理がついていなかったのだ。

 

そうして自分の家で朝日をじっと見た後、シャワーを浴びて次の用事を済ますため家を出た。

 

その日、ランチを食べようと、店を探しつつ、インスタグラムのストーリーを眺めていた時。

同期のストーリーの中に新幹線に乗り込む先輩の姿があった。

その顔にはたくさんの涙があって、15秒の動画で全てを理解できた。

僕は思わず、足を止めて動画を眺めていたが、深呼吸をして、すぐに歩き出した。

僕の思い出がしっかりと箱の奥に収まった瞬間だった。

僕はそうして春を迎えた。来週は新しい後輩が入り、すでに新しく増えた同期もいる。

一歩一歩しっかりと新たな春を踏み出した足音が聞こえていた。

 

大学の先輩方、インターンの先輩方、良き春を。またどこかで会ってくださいね。

女性の幸せを考えてみた。

「美貌格差」
 
という言葉をご存知だろうか。
2015年、経済学者のダニエル・ハマーメッシュが論じたこの格差は「美人と不美人の生涯格差」について研究したもので、「美貌格差」はその結果が記されている書籍のタイトルだ。
その内容を簡単にここに記すと、

平均点の女性を基準にした場合、美人は平均女性よりも8%収入が多く、逆に不美人は4%少ないという結果が出た。これを大卒のサラリーマンの生涯賃金である、平均約3億円にあてはめて計算した場合、美人は約2400万円のトクをし、不美人は1200万円の損になるということ。つまり、美人と不美人の「生涯賃金格差」は3600万円にもなるのだ。

 というもの。今を生きる女性たちが「あの子は可愛いから」と言って、片付けてしまっていることを大真面目に研究した結果が事細かに記されている。

 

美貌格差: 生まれつき不平等の経済学

美貌格差: 生まれつき不平等の経済学

 

 

ところで最近では「女性の幸せ」を説くと言った類の書籍、ドラマなどが多いと、個人的に感じているのだが、私はそこから現代における「女性それぞれの幸せのカタチ」を少し考えていた。

 

現代の女性にもっとも浸透していると言えるのが、「東京タラレバ娘」だろう。

 これは「もっといい男がいる!」と思い続け、気付いたらアラサーになっていて、結婚に対して焦りを持ち始める、といった内容なのだが、これがまたリアリティに欠けている。エンタメ作品としては非常に面白いし、人間味は非常にある仕上がりなのだが、今の時代、仕事を放り投げてまで「結婚したい!」と思い女性は少ないのではないかというのが僕自身の肌感覚だ。(様々な人に読んでもらうために”ありがちな”設定をチョイスしたのかなとも思う)

 

だが、より女性の生態を表すものとして、僕の周囲でたびたび耳にするのが、

Amazonビデオの「東京女子図鑑」だ。

Amazon CAPTCHA

これは秋田から就職のために上京してきた女性(水川あさみ)が、如何にして東京に馴染み、東京に染まっていくか。それを恋愛や仕事模様と合わせて話が進んでいくドラマで、様々な男性と出会い、水川あさみがどのように変化していくのかが面白い部分だ。

ここから先はネタバレになるので、もし見ていない方がいたら、読み飛ばしてほしい。

 

最終的に水川あさみは新卒で入った会社の先輩で、転職しても相談役になっていてくれた言わば「最高の男友達」とマンションの一室を購入し、同棲しているシーンで話が終わるのだが、そのラストシーンで、水川あさみ自身が上京時に思い描いていた「理想像」とすれ違う。そして水川あさみはこう言い放つのだ。

これが私のハッピーエンディングかって?どうなんでしょう。

いつまでも上を見せられるこの街で、私と似たような強欲な女たちは目の前の幸せに100%満たされることがないまま、それでもこれでいいのだと、何度も言い聞かせるようにして一歩一歩歩いていくのです。

頑張りましょう?次から次に手に入れたいものが増えていくんですから

これを見た時、結局「負けたんだろ」と言ったのが正直な僕自身の感想だった。

いい男という抽象的な価値を性格やお金、地位などの面から模索したが、そう言った相手と結婚することはできなかった。”落ち着くところに落ち着いた”というのが僕の感想だった。受け手である自分から見えているものは幸せではないのに主人公が幸せそうにしていることに違和感を感じていた。

だがその考えを一気に正の方向に持って行く本とタイミングよく僕は出会うことになる。

それがこの本だ。

男性筆者が女性向けに書いた「良い恋愛」の教科書といった立ち位置の本なのだが、この中で「心の穴」という言葉が多用されている。心の穴とは、自分の性格のクセみたいなもののことを表しているのだが、文中で筆者は

「恋愛とは自分の心の穴を認め、相手の心の穴を理解することだ」

と書いていた。僕はこの「認める」という部分の捉え方が、この本を読むことで考え方が180度変わったのだ。この本を読むことで東京女子図鑑のラストで感じた”違和感”がスッと心に馴染んだのだ。

もう一度先ほどのセリフを見返してみよう。

ハッピーエンディングだと言い聞かせているわけでもなければ、これでいいと言い聞かせているという主人公が「折り合い」をつけているということが見て取れる。だがこの折り合いというものが付けられることはある種、強さの表れではないかと僕は思ったのだ。

理想を追い求めて、現実はこんなもんじゃないと現実を認めずに生きてきた東京女子図鑑の主人公。その結果、理想と現実の格差に耐えきれなくなり、トライアンドエラーを繰り返した。だがそうしているうちに、主人公の周りは結婚し、子供が生まれ、周囲がライフステージを上げていく間に、現実を否定し理想を思い求め続けていた自分はいつの間にか一人だけのような感覚になってしまった。その時に主人公は気付いたはずだ。「自分の周りの小さな幸せを大事にしよう」「自分はその幸せが一番ふさわしいんだ」理想は理想として、自分が今生きている現実は現実として、受け入れて認識したのであろう。その結果が、ラストシーンにはよく表れている。

確かに負けたかもしれない。でも負けていることを無視しているのと、認めているのでは大きい違いがある。認めたからこそ、折り合いの先に幸せがあるということにも気付けるのだ。それは彼女自身にとって、とても大きいことである。

話をドラマの世界から自分たちの現実に戻そう。このドラマと非常に似ている現実世界。理想を追い求めて現実を否定している人もいれば、すでに理想に折り合いをつけて、現実を受け入れている人もいると思う。

その中で折り合いをつけている人は、セレンディピティというものにも気付けるのだろう。

これは周知の事実だが、十人十色という言葉があるように、幸せだって人それぞれだ。人が羨む幸せの形も確かにあるだろう。だが自分にしか理解できない幸せ、それだってその人から見れば”幸せ”といえるだろう。

自分にしかわからない幸せ。

人から羨ましがられる幸せ。

本質的に幸せなのはどっちなんだろう。

その問いに対する答えはもう出ているかもしれない。

生きる音楽を感じて。

 

照明が落ちて僕はグッと息を飲む。
ドラムが音を鳴らせば、
鼓膜が揺れ、内臓が揺れ、血液が揺れて、
自分の体が液体で出来ていることを思い知らされる。
気づけば息は上がってて、自然とステップを踏んで音楽を感じる。
生ぬるく、甘すぎたスミノフを体に流し込めば、
アルコールと共に、じんわりと音が体に沁みてくる。
この空間、この時間というものに自分を乗せていく。今を生きる音楽というものに身を任せる。
僕の体を揺らすこの曲は、いつもiPodで聴いてる曲とは明らかに別物で、マイクを通じてボーカルの息づかいが聞こえてくる。ベースの音が出過ぎてたり、ドラムが出過ぎてたり。
その音楽としての不完全さが、ライブの良さを演出する。
そうして僕は思いのままに踊るんだ。
なぜなら音楽は最高だから。

 

音楽はここで確かに生きていた。

 

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#20170201

「あ、どうも。」

ドアを抑えて待っていた僕に彼女はそう言った。

まだ寒さはそこら中にいたけど、2月になって陽射しが春らしくなってきて、今みたいな昼下がりならアイスラテを頼んでしまうような、寒さの中に暖かさが混じる、そんな日だった。最近引っ越してきた街を散策してた最中に良さげなカフェを見つけて、オーダーを済ませたのでテラスに向かう最中だった。サラッとした挨拶はいいもんだななんて思いつつ、テラスにいると、店内が満席だったのか先ほどの彼女が僕の隣に座った。

彼女は大きな家具屋の荷物を持っていて、僕も引越しの最中だったので思わず、

「引っ越しですか?」

と問いかけた。すると彼女は

「最近この近くに引っ越したんです」

と言われ、

「へー僕も最近引っ越してきて!ここ、いいですよね」

最近同じ街に引っ越してきたもの同士、意外にも話が盛り上がった。

近くのコンビニがローソンでスイーツが美味しくないことや、日当たりが良すぎて昼過ぎはもう窓を開けていること。

よくよく見れば、その彼女は綺麗なフラットシューズを履いて、切りたてであろう髪を無造作にセットしていて、その姿は新生活が始まっていることを表していた。

話が一息ついて、僕のラテが冷め始めたそんな時だった。

「じゃあ私、家に帰って夜ご飯作らないといけないんで、また」

そう言って彼女はテイクアウトカップに入った氷の方が多くなってしまったアイスラテを持って立ち上がった。

「また」

僕は特に気の利いた言葉を掛けられずに、彼女の後ろ姿をただぼーっと見つめていた。

この街に住むことに不安を持っていた僕は新生活を生き抜く戦友が出来たような気持ちになっていた。またどこかで会えたらいいな。

 

そんな21日。

いいコーヒー屋にはいいストーリーがある。

https://www.instagram.com/p/BP-C8iygk6V/

THE LATTE TOKYO

食べログ THE LATTE TOKYO

 

生の希少価値

「白樺の樹液を北海道の人は飲むらしい」

ということをどこからか聞いて、少し興味を持っていた。

東京出身の僕からすると、樹液を飲むってことはかなり意外性があるのだけれど、現地の人からすると、特に普通なことで、しかもそれはかなり貴重なものらしいのだが、ネットで検索すると普通に売られていたりもする。

白樺樹液100% 森の雫

白樺樹液100% 森の雫

 

謎が多い、この白樺の樹液、一体どんなものなのだろうか? 

白樺の樹液は栄養豊富でミネラルもたくさん含まれているから北海道の人はよく飲むらしいのだが、この樹液、採ったまま放っておくと数日で白濁してしまい、飲めなくなってしまうのだ。(最近は技術の進歩で製品化もできるくらいにはなった模様)

しかも年中採れるわけではなく、採れるのは春先だけ。

どうやらかなり希少価値の高いもののようだ。

なんだか北海道に行きたくなってきた。でもネットで買えてしまうのか。その中で、

最近は本当に自分が動く必要がなくなった時代だなってつくづく感じさせられた。

amazonはどこにいたって、何でも買うことができるし、

ustreamは好きなアーティストのライブを配信していたりするし、

kindleは常に図書館を持っているような感じだ。

別に僕は技術の進歩に対してのアンチがしたいわけではないのだけど、生で何かをするということの貴重性は逆に際立ってきてるなとも感じるのだ。

つい先日相撲を見に行ったのだけれど、それはそれは面白かった。

毎晩NHKでダラダラとやっている相撲中継。おばあちゃんやおじいちゃんが相撲を見ているのを見て、何が面白いのかと21年間思ってきた。そんな人間が相撲を見に行ったら、普通の人じゃ知らないような力士の名前を覚えるくらい相撲に熱狂して家に帰ってくるわけです。これって後から思えばすごいことだなと思った。生はすごい。

テレビでは感じれないことってたくさんあるんですよ。

お相撲さんが意外と良い匂いを放っていること、美味しいちゃんこが場内で売られていること、やっぱりこれはテレビじゃどうしても味わえないけれど、こういう細かい部分が相撲ってモノを面白いと思わせてくれる材料の一つ一つとなって、一人の人間を熱狂させているのだなと思ったわけです。

生物(なまもの)といえば、僕の大好きな最果タヒさんも「音楽は生物」だって言ってました。

きみの言い訳は最高の芸術

きみの言い訳は最高の芸術

 

 最近結構音楽は時代を駆け抜けてるなって思う場面があって。

この前SuchmosがThe Kidsというアルバムを出して、その中に「TOBACCO」という歌がある。

【Amazon.co.jp限定】THE KIDS(DVD付)(ステッカー付)

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この曲中の歌詞で

慢心してんじゃない? グルービーはもういない

モテない時代 昔はもっと簡単だった

安心が欲しいのか? ヒッピーはもういない

持てない時代

この歌詞見たときに、これは今の時代でないと理解できないかもなって思って。

やっぱり今の時代、みんなどこかに不安を抱えて生きていて、それは昔も今も一緒なのかもしれないけれど、その不安はインターネットというものを通して思ってるよりも誇大化してしまったり、身近に感じるものになってしまっていて。

そんな時代を生きているからこそ、こういう歌詞の良さもわかれば、悪さもわかる。それは、今聞いてるからこそわかることなんですよね。そして今じゃないと、もしかしたら耳にすら届かないかもしれない。そんな一期一会なものだと思って音楽を聴くと、同じ曲も違って聞こえてきたりして、またそれが楽しかったり。

これも生じゃないと、そして今じゃないと、わからないことなのかなって最近思う。

これだけ生でしか、わからないことがあると刻一刻と過ぎていく時間になんだか、名残惜しさを感じてしまうし、今という時間にどれだけ多くのものを吸収できるかってすごい感じてしまう。けどそれもまた時間の残酷さであるし、面白い部分でもあるわけで。

でもそんな時間の側面、生という側面、意識するのとしないのとでは、全然違う景色になるんだろうな。

 

ところで、そもそもSuchmos自体がヒッピーみたいな存在なのに彼らがヒッピーはもういないとか言うと、少し怖いネ。