出会いの春を迎えるための別れという存在。
コートを着なくなり、段々と春の兆しを感じはじめてきた今日。
ようやく先日、春を迎えられたなと感じた出来事があった。
僕の中で春というのは「出会いの春」であり、別れとか悲しさとか、そういった類の感情は春という季節に含まれておらず、どちらかといえば、出会いとか新しいような芽吹きを感じるのが、春という認識だ。
だから春を迎えるには別れというものを乗り越えて春に向けた準備をしないといけない。
そんな中、3月の最終週には様々な人との別れがあった一週間だった。
追いコン、卒業式、自分とたくさんの思い出を共有している人達が社会人になっていく。
その姿は逞ましくもあったが、様々な人と「あんなこともあったねー、こんなこともあった」というように、追体験を共有して、より思い出というものを深く胸に刻んでいるようでもあった。そんな社会人になる前の悪足掻きとも言えるような姿を目の前にして、僕も同じようにその人その人との中にある思い出を箱の中から取り出しては、奥深くにしまうという行為を繰り返していたように思う。
冷静に考えてみれば、別に社会人になるということは死ぬことではないし、会おうと思えばたぶんそれなりにすぐ会えるだろう。
頭の中ではわかっているつもりでも、共に朝まで遊び尽くし、飲み尽くした先輩が学生から社会人になり、違う世界に飛び込んでいく姿を見るのは、やはり寂しいものだった。
高校から大学、大学から社会。
そのプロセスの中で幾度となく別れを体験してきた。
けれど、別れは何度経験しても慣れないものだ。思い出の形は相手によって変わるし、形が違えば思い出の処理も違う。そうやって様々な別れの形が存在しているんだと思う。
なにより、追いコンで一緒に朝まで飲んだ先輩は、その日の午後一の新幹線で大阪に経とうとしていた。
本人は「見送られるのが苦手」と言っていたが、午後一の新幹線には期待も入り混じっているように思えた。
抱えきれないほどの思い出話に花を咲かせて、僕は夜が明けぬうちに店を出た。やらなきゃいけないことがあったのは事実だが、なにより卒業する先輩と一緒に朝日を見たくなかった。この夜が終わる瞬間に立ち会っていたくなかった。僕の中で整理がついていなかったのだ。
そうして自分の家で朝日をじっと見た後、シャワーを浴びて次の用事を済ますため家を出た。
その日、ランチを食べようと、店を探しつつ、インスタグラムのストーリーを眺めていた時。
同期のストーリーの中に新幹線に乗り込む先輩の姿があった。
その顔にはたくさんの涙があって、15秒の動画で全てを理解できた。
僕は思わず、足を止めて動画を眺めていたが、深呼吸をして、すぐに歩き出した。
僕の思い出がしっかりと箱の奥に収まった瞬間だった。
僕はそうして春を迎えた。来週は新しい後輩が入り、すでに新しく増えた同期もいる。
一歩一歩しっかりと新たな春を踏み出した足音が聞こえていた。
大学の先輩方、インターンの先輩方、良き春を。またどこかで会ってくださいね。